「願望実現」オタクが、自分を抉ってみたレポ。

自分を愛するって生半可なことじゃなかった。

自愛は二足歩行

 

自分を愛すること&自分に愛されることは本来、当たり前のことだとよく言われる。

 

叶えることと引き換えに自愛をしているうちは、どうしても義務に感じるものだが、本当に向き合うと決めて続けると、段々と自分の心が見えて、ほぐれて、これこそが自分が一番ほしかったものだと実感してしまう。

すると、自分を愛している状態が本来の状態だったのだ気付く。標準装備という感じだ。

 

自愛は「しなければいけないもの」ではない。

その状態が自然だから、力むのをやめると勝手にとそこへ戻っていくだけの話だ。寧ろ懸命に自分を嫌おうとしてきた今までが異常だったわけだ。

 

自分を好きになることに理由はいらない。

でも、嫌いになるにはたくさんの理由がいる。

 

自分が好きなところを挙げられない人は多いと思う。そしてその理由を「自分が嫌いだから」と思い込んでいる人も多いだろう。

 

でも本当は「自分を好きなことは当たり前すぎて、理由がいらないから考えたこともない」なのではないだろうか。

 

反対に、嫌いなところを咄嗟にいくつも挙げることができるのは、自分を嫌うことは普通のことではなく、様々な理由がないと成り立たないので、日頃から注意深く、それっぽい要素を見繕っているからではないだろうか。

 

つまり、自分を嫌いな理由は薄っぺらい嘘なのである。

 

自愛はたとえるなら二足歩行と同じだ。

赤ん坊は「私には二足歩行する義務と使命がある」と自覚しながら、二足歩行を習得するのではない。

 

ただ生まれて、ただ体が発達し、自然と二足歩行という形に落ち着くのである。

 

人間には別に、二足歩行する義務はない。ルールとして掲げられているわけではないのだ。

 

別にしたければ四足歩行すればいいし、逆立ちで歩いたっていい。捕まるわけでもない。でも実際にはする人はいない。

 

二足歩行が人間の肉体構造的にはいちばん適しているので、それに無理に逆らうことなく行っているのだ。

 

自愛も同じで、義務でなくてもその状態が一番自然で適しているから、そうするだけなのだ。

 

無理して嫌いな理由を探し回り、懸命に自分を嫌おうとしていること、そして自分を好きになるためには理由が必要なんだということ、まずそこに疑問を持つのがいい気がする。

怒りと憎悪は自分へ向けたもの

どーも、モヘジです。

 

ある嫌な出来事があって、その元凶である人物を今でも憎んでいると書きました。

 

koukoudori.hatenablog.com

 

相変わらず嫌いで、何度でも怒りと憎悪がぶり返すんです。

 

ふとですね、その怒りや憎悪は自分へ向けたものかもしれない、と思いました。

 

私は長年、自分自身を「変えよう」としてきました。

そして自分を変えることで、外の現象を変えようと(願望実現)。

 

恥ずかしながらほぼ無意識で、自分の思考や感情、言動を「叶えるための理想の形」にするよう、自身へ強要してきたわけです。

 

自分を愛しているといいながら、自分のことを全然見ていなかった。

いつでも理想ばかりを負っていた。

 

そしてそれは、願望実現を知る前から同じことでした。

少しやり方や則るルールが変わっただけで、私が今の私を否定し続けてきたことは同じでした。

 

そんな長年「お前は変わるべきなんだ」「そのままじゃないけないんだ」「ここも、あそこも、これもそれも全部、改善しなきゃいけないんだ」と言われ続けて来た私は、当然、自分自身へのものすごい怒りと憎悪を溜め込んできたことでしょう。

 

「私は私を愛しています」と言いながら、その実やってきたことは全面否定でした

しかもそれを「あなたの為だからね」と色々な理論や理想で武装して、押し付けてきたのです。

 

「なにが愛している、だ! 嘘つき!」と疑心暗鬼になるのは自然のことですね。

 

その怒りや憎悪が、ようやく今の自分を注視し始めて、明らかな形で現れたのだと思います。今回の嫌な出来事も、その猛烈な悪化の仕方も、「はやく気付け馬鹿!」という私自身からのメッセージ、救援信号だったのでしょう。

 

私はまだまだ、怒りや憎悪を繰り返し繰り返し感じると思います。

それは人に対してだったり、環境に対してだったり、様々でしょうが、行き着くところは「自分への怒り・憎悪」なのです。

周りの現象などは、怒りと憎悪に気付かせ、解放する為のツールにすぎないんです。

 

これはショックなことではありますが、素直に認めて、愛していこうと思います。

たくさん謝りたくなって、ごめんね、と心の中で声掛けしていました。

そしてひどいことをしてきた私、謝ってる私も既に許されているのだと思うと、自分自身への感謝を感じます。

 

何か猛烈な感情というのは、「私のこの気持ちを見て! 受け入れて!」の合図だと思います。寂しいとか、悔しいとか、様々な感情含めて。愛しさ、なんてものもあるかもしれません。

 

そうそう、私は「どうせみんな私を馬鹿にしているんだ」という想いが強く、その人たちを見返したい、とよく思ったものでした。理想を叶えたかったのは、そういう気持ちが一番強かったのかもしれません。

 

でも、この「見返したい」も、私自身への感情だったのだと思います。

 

その証拠に、社会的に「すごいね」と言われることを達成しても、期待したような高揚感も満足感も得られなかったから。人がなんと言ってくれても、私は癒されなかったのです。

 

私を馬鹿にしていたのは、私だったのです。

見くびって、あざけっていたのは私でした。

 

才能がない、何もできてない、気遣いが下手、役に立ってない、人並みにすらできない・・・。

 

そんな風に低評価ボタンを押し続けて来たのは、私だったのです。

 

あー。本当に、ごめんという気持ち。

 

 

 

 

 

 

 

人を恨む自分を許したかった

どうも、モヘジです。

 

そもそも今回また「絶対ぜったい叶えてやるぞ!」という、いつものサイクルに入ったのは、とある1つの不快な出来事が原因でした。

 

その現象は私を長期間苦しめてきた、ということに気付き(気付くもなにも明らかだったのだが)、どうしても解決したかった。その現象を起こしている張本人へ対する憎しみと怒りが毎日私の頭と心を離れなかった。

 

でも解決の為の行動は、嫌な現象を強める気がしてなかなか出来なかった。

それがアファをし出して、最終的に自愛に行き着いて、行動する気になった。

わずか3~4日の間の変遷だったと思う。

 

その行動とは第三者に介入を頼むことだったのだが、その第三者がしっかりと対応してくれると約束してくれた。「仕方ない」で済まされるかと危惧していたが、共感を示してくれて、それだけでひどく救われた。

 

その後、実際の対応の詳細は知らないが、事態は随分と改善した。

まだ100%の解決とは思わないし、感覚過敏と、またぶり返すのじゃないかという疑心暗鬼も消えないが、とりあえずは以前よりはずっとずっと平和な毎日を送っている。

 

ただ、私は元凶であった人物を恨み続けていた(というか今も)。

とにかくその人物が嫌いになってしまったので、微かな気配を感じただけで嫌悪で心臓がバクバクするほどだ。

 

願望実現系では、「世界=自分だから、人を恨まない方がいい」みたいなことがよく言われる。「自分に跳ね返ってくる」「自分を恨んでることになる」と。

 

それで私もいつしか、人を恨んだり嫌うことはダメだと思うようになっていた。

誰かに腹が立っても「でも、相手にも事情があるし」「自分も悪かったし」「もめ事になったら面倒くさいし」「大人げない。同じ土俵に立っちゃいけない」と、何かにつけて怒りを静めようとしてきた。

 

同時に、相手にビシリと自分の主張を伝えられない自分も情けなく思っていた。

私のことが大事なら、堂々と対処してくれよ、と自分に対して思っていた。

 

今回の件についても、愚痴は言いつつも、同じように相手の心情を慮ろうとしていた。

 

だが、どんな自分の恨みや怒りを静めようとしても、状況は悪化の一途をたどり、心身ともに限界が来ていた。

いつものように冷静な一部分が残っているような状態ではなくなり、相手のことを心の中や言葉で罵る日々が続いた(本人にはいっていない)。

 

「ウザイ」「キモイ」「頭おかしい」「自分勝手すぎる」「いい歳した大人が情けない」「不幸すぎる人生」「しょうもない人間」「〇ね」「事〇ればいいのに」

 

このように散々だった。

相手の人格に留まらず、存在自体を否定した。消滅することを望んだ。

かつての自分自身に対するように。

 

こうして罵倒することによって、嫌な現実を固定し、更に悪化させるかもしれない。

そう思うと怖かったが、止められなかった。怖がる自分も許した。

 

そして酷い言葉で相手を罵る自分も許した。相手を許したくない、憎しみ続けたい気持ちも許した。

一方で、相手を恨みたくない、こんな風に囚われたくないという相反する感情も許した。

 

そうこうするうちに、私の気持ちは自然と、少しだけ、穏やかになった。

今も相手が大嫌いではあるし、改善したとしても許したくないが、それも肯定している。この恨みや憎しみが自分に返ってくるのだとしても、私は今の自分の気持ちを肯定する。

 

この恨みもいつかは消えるのかもしれない。

でも、自分で消したり、変えたりする必要はない。

私が持ち続けたい、感じ続けたいうちは、思う存分それを許そうと思う。

私自身と一緒に、のたうち回ろうと思う。

 

自愛とは、そういう覚悟だと思う。

何も叶えなくていい世界が、私の叶った世界だった

こんちは、モヘジです。

 

本願は無条件に自分を愛すること(愛されること)。

今まで願いだと思ってた理想は、自分からの無条件の愛を受け取る為に必要だと思い込んでいただけ。つまり、願ってすらいなかったということ。

 

それが分かって、私はもう(理想を)叶える必要がなくなった。

どれだけ嫌だ不快だと思っている自分のままでも、愛されてしまうからだ。

 

ふと「そうかあ、この世界が、私の叶った世界だったんだな」と思った。

 

私はずっと「理想を叶えたかった(手に入れたかった)」が、その裏にある本音は「さっさと全部を叶えて、こんな役目(義務)から解放されたい」だった。

 

叶える為に、現実的と言われる手段であれ、スピリチュアル的だといわれる手段であれ、本当は何もしたくなかった。

でも「手に入れなければならない義務」は絶対だと勘違いしていたので、ずっと手放せなかった。休めなかった。

 

私には今でも「こうなったらいいな」という感情や思考はある。

中には執着しているものもあるだろう。

 

でも「こうなったらいいな」と「絶対に手に入れてやる」が繋がらない。

「こうなったらいいな」は「こうなったらいいな」のままなのである。

「ほしい」という感情があったとしても、手に入れる役目は私のものじゃない。

 

もし絶対に叶える必要があるのなら、私とは関係のないところで、私抜きでご勝手にどうぞ、という感じ。

 

私の唯一の役目は、どんな自分も無条件に愛することだけだ。

 

「ほしい」と「絶対に手に入れてやる(私が手に入れなければ)」を強烈に関連付けていたことが、私を一番苦しませていたと思う。なんの疑問もなく=でつないでいたことが。

 

この「何も叶えなくていい」「叶える義務を負っていない」という世界が、私が最も欲しかった世界だったのだ。

 

 

 

 

叶わなくていいなら、法則も不要だった。

私が願望実現にドはまりするキッカケはなんだったのか・・・。

今となってはよく覚えていません。

 

なんか最初はオカルトっぽさに惹かれてた気がします。

それが段々「これはマジだぞ・・・?」ってなってきて・・・。

 

まあなんであれ、私のどん底人生が明るくなったキッカケになってくれたものなので、感謝しています。

 

といっといてアレなんですが、「叶えなくてよくなった」今となっては、願望実現でいろいろ言われている法則なんかも、別にいらないじゃんって話なんですよね。

 

「内面=現実」とか「自分=世界」とか。

引き寄せの法則とか、思考が現実になるとか、いや感情が云々とか・・・。

無意識化(潜在意識)に刷り込まれたものが現実化するとか。

 

以前は、それこそ全力で縋ってました。

五体投地くらい。

 

それがあるからこそ、内面を調整する意味がある訳ですし、その結果願いも叶う訳ですし。

 

でも、叶わなくていいとなったら・・・。

なにも従うべき法則がなくなっちゃうわけです。

 

「叶えたい立場」からしたら、法則とかはぜんぶ「叶える為の法則」なんですよ。

だから「別に叶えなくていい」になったら、それらの法則いらないですよね。

消す必要はないですけれど。活用する必要はなくなっちゃう。

 

「叶えなくていい」ということは「叶える為の○○」が全部なくなっちゃう。

言動も思考も感情も現象も認識も・・・全部ただ自然に浮かび上がってきただけのものなんですよね。そしてそのまま愛されてしまう。愛していい。

 

この自由さはすごいなと思います。

 

「願いは石ころ」や「水飲むのと同じ」やら

どうも、モヘジです。

名乗りはしたりしなかったりです。

 

願望実現オタク必修の「願望実現系まとめ」は色々読み漁ってきました。

(リアルタイムの掲示板はほぼ見たことないです)

ほんとまとめるのはすごい労力だと思うけど、読みたいことろだけ読めるのでありがたいですよね。

 

その中で「願望は石ころと同じだ(叶ったら重要だと思わなくなるから)」だとか「水を飲むのも願望だ」とか、そういう類の言葉がありますよね(引用は正確じゃないし、解釈も間違っている可能性ありますし、随分前に読んだのでうろ覚えです)。

 

これは以前の「叶えねばならん!」な私にとっては、どうしても採用することができませんでした。いや採用しようとはしたよ。だってそうすれば「叶う」からさ。

 

でも上辺だけで、本心では「そんなこと思える訳ねえだろ」でした。

思い込まそうとしてた時期もあった気がしますが。

どうしても胸がザワザワして・・・。

 

しかし本願というのが「理想を叶えること」ではなく「理想でも何でもない今の自分を愛すること」だと気付いてしまっては、上の文言には頷くしかありませんでした。

 

石ころと水を飲むこと、そして願望。

この3つには明確な共通点があります。

 

それは「私が私を無条件に愛することには、まったくの無関係」という点です。

 

石ころがあろうが水を飲もうが、金持ちになろうが美人になろうが、逆に貧乏になろうがブスになろうが「私が私を無条件に愛すること」にはなんの影響も与えません。

 

そういう意味で、願望には「特に価値はない」ということになります。

 

もちろんこれは「金持ちになる機会があっても軒並み放棄しろ。自分の無償の愛さえあればいいんだから」という意味ではありません。

 

「愛さえあればいいんだから、水なんか飲むな」という意味でもありません。

 

別に何でも自由に選べばいいではないですか。

選ぶというか、現れちゃったもんはしょうがない訳で、したいと思えばすればいいし、したくないならしなければいい。どちらも拒否せず、寧ろ受け入れるでしょう。

 

良いことも悪いことも、気に入ることも気に入らないことも、都合のいいことも悪いことも、それ自体はどうでもよいのです。

なぜなら本願である「愛するかどうか」に無関係だから。

だから何が起こっても起こったもんはしゃあない。

ただそれに対する自分の反応を丸ごと受け入れ愛せばいいのです(物事ではなく自分を受け入れる)。

 

辛いなら辛い、惨めなら惨め、嫌なら嫌。

嬉しいなら嬉しい、楽しいなら楽しい、好きなら好き。

 

どれをどう受け入れたとしても「丸ごと愛す」です。

 

願望は浮かぶのか浮かばないのか

 

私の本願とは「無条件に自分を愛すること(愛されること)」なので、今まで願望だと思って渇望してきた「理想」は、最初から願いですらなかったわけです。

 

それを持ってれば自分に愛してもらえる(持ってなければ愛されない)と思ってたから、必死に欲しがってただけなんです。

 

「ではお前は一切、なんの願望も浮かばないのか」

 

と聞かれると、もちろん浮かびます。

 

願望というか、「あれしたい、これしたい」は普通にありますよね。

 

旅行番組を見れば「こんなとこ行ってみたいね~」かもだし、豪邸を見れば「かー! こんな金があればなあ」かもだし、美人を見たら「あんな顔とスタイルに生まれたかったー! ずりー!」かもしれません。

 

でも、これって「喉かわいたー水のみてー」「トイレいきたーい」と何も変わらないじゃないですか。ただ自然な欲求というか。

 

なので「~したいなあ」で、終わりです。

私はそう感じる自分を許していますし、「それを手にできない自分」も許してますので、「絶対手に入れなきゃ! その為にはうんぬん」は発動しません。

 

だって何も持ってなくても愛してもらえるのでね。

もしその思考が叶わない要素だとしても、叶える必要がないんだから関係ないわけです。

 

そこだけが以前との違いでしょうか。

でも渇望が湧いたとしても、そんな自分も許してるから、それで終わりです。

 

以前は「叶えねば」があったので、「渇望してるってことは今ないって認めてるってことだから、もう既にあるって感じなきゃ」とかやってましたが、今は「別に叶えなくていい」なので、どう感じようが考えようがオールフリーですね。