どーも、モヘジです。
ある嫌な出来事があって、その元凶である人物を今でも憎んでいると書きました。
相変わらず嫌いで、何度でも怒りと憎悪がぶり返すんです。
ふとですね、その怒りや憎悪は自分へ向けたものかもしれない、と思いました。
私は長年、自分自身を「変えよう」としてきました。
そして自分を変えることで、外の現象を変えようと(願望実現)。
恥ずかしながらほぼ無意識で、自分の思考や感情、言動を「叶えるための理想の形」にするよう、自身へ強要してきたわけです。
自分を愛しているといいながら、自分のことを全然見ていなかった。
いつでも理想ばかりを負っていた。
そしてそれは、願望実現を知る前から同じことでした。
少しやり方や則るルールが変わっただけで、私が今の私を否定し続けてきたことは同じでした。
そんな長年「お前は変わるべきなんだ」「そのままじゃないけないんだ」「ここも、あそこも、これもそれも全部、改善しなきゃいけないんだ」と言われ続けて来た私は、当然、自分自身へのものすごい怒りと憎悪を溜め込んできたことでしょう。
「私は私を愛しています」と言いながら、その実やってきたことは全面否定でした
しかもそれを「あなたの為だからね」と色々な理論や理想で武装して、押し付けてきたのです。
「なにが愛している、だ! 嘘つき!」と疑心暗鬼になるのは自然のことですね。
その怒りや憎悪が、ようやく今の自分を注視し始めて、明らかな形で現れたのだと思います。今回の嫌な出来事も、その猛烈な悪化の仕方も、「はやく気付け馬鹿!」という私自身からのメッセージ、救援信号だったのでしょう。
私はまだまだ、怒りや憎悪を繰り返し繰り返し感じると思います。
それは人に対してだったり、環境に対してだったり、様々でしょうが、行き着くところは「自分への怒り・憎悪」なのです。
周りの現象などは、怒りと憎悪に気付かせ、解放する為のツールにすぎないんです。
これはショックなことではありますが、素直に認めて、愛していこうと思います。
たくさん謝りたくなって、ごめんね、と心の中で声掛けしていました。
そしてひどいことをしてきた私、謝ってる私も既に許されているのだと思うと、自分自身への感謝を感じます。
何か猛烈な感情というのは、「私のこの気持ちを見て! 受け入れて!」の合図だと思います。寂しいとか、悔しいとか、様々な感情含めて。愛しさ、なんてものもあるかもしれません。
そうそう、私は「どうせみんな私を馬鹿にしているんだ」という想いが強く、その人たちを見返したい、とよく思ったものでした。理想を叶えたかったのは、そういう気持ちが一番強かったのかもしれません。
でも、この「見返したい」も、私自身への感情だったのだと思います。
その証拠に、社会的に「すごいね」と言われることを達成しても、期待したような高揚感も満足感も得られなかったから。人がなんと言ってくれても、私は癒されなかったのです。
私を馬鹿にしていたのは、私だったのです。
見くびって、あざけっていたのは私でした。
才能がない、何もできてない、気遣いが下手、役に立ってない、人並みにすらできない・・・。
そんな風に低評価ボタンを押し続けて来たのは、私だったのです。
あー。本当に、ごめんという気持ち。