「願望実現」オタクが、自分を抉ってみたレポ。

自分を愛するって生半可なことじゃなかった。

「感情から解放されたい」自体が『私』の嘘。

どうも、モヘジです。

二月ももう終わりですね。

 

暖冬だからか、どうにも天気の悪い日が多かったですが、楽しい事、嬉しい事がたくさんあった当月でした(まだ終わってないぞ)。

 

願望実現とか潜在意識を知った当初は、とにかく願いを叶えることが重要事項でしたが、段々と年月を経るごとに、

 

「願いはこの際叶わなくても良いから、ただこの苦しい感情から解放されたい」

 

と思うようになりました。

寧ろそれが願望になってた。

 

隣人が叫んでいても、自分の心が何も乱されなければ苦しみもない訳で、

 

「動揺しないように」と、恐れや不快感を戒める日々が続きました。

 

でも昨日ふと、

 

「ああ、感情から解放されたいということ自体が、『私』の嘘なんだなあ」

 

と気付いたんですね。

 

他のことは「これは『私』の声だなあ」と気付けていたのに、

 

「悟りたい」とか「願望とかから解放されて楽になりたい」とか「背後の気配をずっと感じてたい」とか「安心感がほしい」とかとかは、『私』の声だとはまったく気付けていなかった・・・。

 

不思議ですよね(笑)

 

何日か前、背後の方に意識を置くことで、どんな感情・思考が浮かんでも穏やかな、それらがシュワっと溶けるような感覚があり、深い安心感に包まれていました。

 

でもそれはずっとは続かず、『私』「またあの時の感覚を取り戻さなきゃ」と静かに焦り始めていました。

 

でも、達人と呼ばれる方たちが繰り返し書かれているように、この背後に重心を置く意識の在り方って、ぜんぜん特別なことじゃないんですよね。

 

最初は新鮮な感じがして、高揚感とか幸福感も強いんだけど、でももともと日常の、当たり前のことなのだから、そういった強い感情は薄れていって当然なんですよね。

 

いちいち感動しないし、特別視しない。

 

背後を意識し始めたときは、ずっとそこを感じようと意識していて、今は「あ、全然意識してない。また元通りだ。だめだ、ちゃんと感じなきゃ」となったりしたんですが、それも結局「あ、でも、そうか。当たり前なんだから、意識し続けるはずないんだ」と気付いたりして。

 

自分の性別や年齢をずっと意識しているわけではないのと同じなんですよね。

意識してないからって何かが失われるわけでもなく、本当に当然のこととして粛々と続いていくだけなんだなあって。

 

その中に『私』としての苦悩や感動があるんだけど、その背後でじっと見ている者がある限り、それらを消す必要もなく。寧ろ見る為に、そういう苦悩や感動を楽しんで鑑賞する為に作ったのだから、それでいいんだーって。

 

後ろの者を見ようとしたり、形で表そうとすると「む、どうしても無理だ」となる。

 

私はまだまだ、『私』と距離が近くて、背後のもの自体と言う自覚よりも、背後の者に見られているという意識の方が強いけれど。

 

最近は自分が背後なんだ、という自覚もようやく芽生えつつあります。

 

そんな実況報告でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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背後でずっと見られている安心感<〇△〇>

こんばんは、モヘジです。

モヘジの表記がカタカナだったかひらがなだったか、おぼろげになってしまってます。

 

なんとなく『私』とは違う、というか、私を内包したバックグラウンドにある存在を感じ始め。

 

そうなると『私』はすぐに、

 

「よし、この背後のものを利用して願いを叶えよう」

「これで全部うまくいくはず!ルンルン♪」

 

とか期待し始めるわけです。

 

知識だけは満載な私ですから、今まではそういう期待が出てくると、

 

「だめだめ、もう叶っているんだから、期待なんかおかしい」

「期待が出てきてるってことは、まだ完全に認識を変えれてないんだ」

 

と、抑えつけたり、またゴール探しの旅に出ていました。

 

でも今は、そういう私の様子を、後ろからジッと見てい存在を感じるんです。

 

感じるだけで、色々浮かんできているものを、どうにもしなくていいんだと分かるんですね。

 

願望実現界でタブー視(?)されている思考や感情も、今までのように「早くどうにかしなきゃ! えっと、まずは拒否せず十分に感じて、それをリリースして」とか焦らなくなりました。

 

ただ、そのままに、出てきたものを見ていればいいのだと、なんとなく分かってきました。

 

たとえアワアワしている私がいても、その私をジッと見ていてくれる、なにも修正しようろせず、善悪もなく受け入れてくれている、そういう存在を感じると、安心感があるんですよね~。

 

よく『私』とは違う存在(? 空間? 意識?)を感じると、安心感に包まれるとか聞きますけど、私はよく分からず。

 

なんとなくボンヤリ感じているだけで、特に何も感じなかったんですね。

 

でも、またそこで、

 

「安心感がないってことは、また間違ってるんじゃねーか!?」

「安心感を感じ取らないとーー!」

 

って拘っちゃうと、ドツボにはまるのが分かり切っていたから、まあいいやーって思ってほっておいたんです。

 

だから自然と、ジワジワと、安心感のようなものが湧いてきました。

染み出してくる感じで。

 

すると、小さな嬉しい事とかによく気付くようになる。

 

前は「これも嬉しいけど、もっと大きな嬉しい事がないかなー」って少し残念な気もあって「早く大きなことが来ないかなー」って待ちわびている感じもあって、「いや、この小さいのを積み重ねれば、そのうち大きなのがくる!」と自分を鼓舞することもあって。

 

そういうのが全くないわけじゃないんだろうけど、後から「あれ、これって結構うれしいなあ」って気付く感じで、小さな幸せがありますね。

 

また続けていこうと思います。

続けるっていうとなんか違うのかもしれないけど。

 

「分かった」から、どうこうしようとしない。

前回の記事の通り、「私」という意識から距離をおいてちょっと過ごしてみました。

 

その間、まとめサイトなども見つつ(新着更新がいつも嬉しい)、なんとなく「私」のバックにある存在が分かってきました。

 

それでドカンと叶ったとかではないけど、ミニマムな幸せに気付く度、逆に、こんな些細な部分まで「面白い」「嬉しい」で埋めてくれてるんだとハッとして。

 

最後までチョコ入ってるトッポ的な。

たい焼きのしっぽまでちゃんとアンコ入ってる的な。

 

で、その背景のなにかに気付いて、いつもなら「どうにかこの視点を維持して」とか「どうにか望んだ現実を選んで」とか新しい攻略ゲームが始まってたけど。

 

「こっからどうにかしなきゃ」

「あと少し掴まなきゃ」

 

と焦って画策してる自分を眺めるうち、

 

「おおそうか、もうここがゴールなんだ」

「ここから先っていうのはないんだ」

 

と、気付いてみちゃった。

 

私という意識はすぐにどこかへ開拓に向かってしまうけれど、せっかく気付いたのにまた旅へ出たらループなんだよなあ。

 

背景としばらく付き合ってみます。

「私」を捨てようと試みてみる

どうも、モヘジです。

 

なんと前回から1年も経っちゃってました。

 

以前の記事を1つだけ見返してみたけれど、こんなこと書いてたんだなーって(笑)

 

やけに冷静ぶって賢ぶってかいてる感じ。

 

騒音主はまだ隣にいますし(うるさいが去年より全然まし。強制退去へ向けて動いてもらってる)、大金持ちになった訳でもなく。

 

でも大好きな配偶者と共に暮らし、苦手で避け続けてきた接客業のパートを(めっちゃ嫌々)始めて、意外にも今までで1番やりがいを感じたり。

 

騒音主について最近思うのは、こんなに罪悪感なくクソミソに蔑める存在としてかなり有用なんだろうなあと。

 

「まじで害しかない」

「生きてる価値ない」

「早く○んだ方が世のため」

 

なかなかこんな言葉、罪悪感なしには言えませんよ(もちろん当人には言ってないが)。

 

しかも騒音主を見下せば見下すほど、カタルシスというか快感を感じてる自分もいて。

 

騒音主はアル中で、ずっと常人には見えない存在と会話したり絶叫したり、ドオーンと怪物が足下ろしたみたいな音を鳴らしてるんですが。

 

そういうヤバイ奴であることを確認したい、という欲求もすごく感じる。

 

そんなこんなで(?)、はっきりと動機があった訳じゃないけど、またスピ的なものを読みたくなって、もはや馴染みの潜在意識まとめサイトへお邪魔して。

 

たまたま読んだ方の記事に、セドナメソッド創始者レスターの記事のリンクが貼ってあって(メソッド発見に至る自己探求の旅)。

 

読んでみたら、けっこう面白かった。

というかこれ、前にも読んだことあった(笑)

 

騒音主が叫び出す度、この感情を手放しますとか、愛に返しますとか、適当に真似っこしてみたり。

 

(セドナは詳しくないけど、感情を手放すか自分へ聞いて、はいかいいえで答える部分だけ知ってた)

 

それで何かが劇的に良くなるとかはないけど、面白いなーって。レスターの記事が面白かったから、ミーハーな影響を受けた。レスターが自由で羨ましかった。

 

その後、また潜在意識まとめをウロウロしてて、ニッポンさんという方の「苦しみのもとである『私』をやめた(要約)」というキーワードを読んで、ああそっかーって。

 

レスターの真似っこで、過去のトラウマを思い出しては、その感情を手放すってしてたけど、そもそもトラウマの持ち主である『私』を手放してしまえば、なんの苦悩もなくなるなーって。

 

だからそれ以降は、「辛いって『私』が思ってるなー」って、一旦『私』を強調して(こんな感じのをどっかで読んだ)、その後に「この『私』を手放します」ってアレンジしてみたよ。

 

別になんの実感も特別な感覚もないけど、『私』という責任というか枠から解放される感じがなんか小気味いい。

 

スピではよく、私は存在しないとか言われるけど、それを知識でなく分かったことは私にはない。

 

だから、私と思っていたものを手放したとき、それでも残る(俗に言う)本当の私というのを見るのが楽しみだったり。

 

達人さんとかがよく、なんでも可能だし、好きなものを選べばいいと言うけど、それを本当に心から言えるときというのは、『私』を手放したときなんじゃなかろうか。

 

きっと無理だとか思うのは、今まで積み重ねてきた記憶や体験、常識があるからで、もしその枠=『私』がなくなれば、まっさらな状態だから、いくらでもなんでも可能だと心から思えるんだろうな。思うというか、それが当たり前というか。

 

それを言葉だけ受け止めて、『私』という枠のなかで一生懸命「いや、なんでも可能なんだ❗」って言い聞かせても、結局は枠のなかで生きてるから、常識とか記憶に負けちゃうんだろうな。

 

枠と力比べをするんじゃなくて、その枠を手放す。

 

しばらくやってみます。

 

嫌な世界をつくる理由

 

願望=実現、内面=世界なのだから、嫌なことが起こっている場合は自分が起こしているのだ、とよく言われる。

 

長年、認めたくなかったが、自愛に舞い戻る前にその理由を探ってみようとしていた。

 

そのとき出てきた理由は、「今の理想じゃない自分を愛してほしいから、愛してもらうまではかわりたくない」だった。

理想を手にした後に愛されても、それは条件付きの愛だから、そうじゃない今の自分をそれでもいいとうけいれてほしかった。だからテコでも望まない現実を動かさなかった。

 

すごく納得したので、ここから自愛に全フリすることにした。最近は愛するとか許すとかいうよりも、自分自身に目を向けてあげること自体が自愛なのではと思っている。

 

自分に目を向けるようになって、まだ今日で1週間ほどだった。その間に、今回また願望実現ループに飛び込むキッカケになった出来事が2つ、大きく改善した。

 

1つめは、体の痛みだ。

色々なところに痛みが出ており、対処するも悪化の一途を辿っていたが、自愛し始めた日から徐々にましになり、今はかなり良くなった。

完治ではないが、日常生活に苦痛があるほどではない。痛みで眠れない日もあったことを思えば劇的な回復だ。

 

2つめは、近隣住人の迷惑行為。

断続的な騒音で、日中も心休まらず、夜も眠れない日々が続いていた。

まだ100%ではないが、かなり改善した。

かなり長期間耐えていたので、その間に音にかなり過敏になってしまい、ましになった今も相手の気配や物音が聞こえたり、他の男性の声をきくと胸がばくばくしたりする(騒音主は男性)。

騒音以外にあと1つ迷惑行為があり、そちらはまだ続いている。まだ完全に心休まる段階ではないし、ぶり返しも恐れている。

正直、出ていってほしいが、次の住人がまたうるさかったら・・・という恐怖があったり。

出ていかすには、このまま騒音が続いた方が強制退去に出きるかも、と矛盾した思いがあり、それが現実化するのも怖い。

 

他のことは「自分を好きになる為に欲してたにすぎなかった。願望ですらなかった」と納得しているのに、この件に関してだけはいまだに執着が強い。

 

いくら自分に集中してみても、実際に声や音が聞こえると心臓がバクバクとなり苦しい。

 

もちろん、望まない現実があるから、自分を愛さないという話ではなく、恐れや不安、執着を持つ自分、そして本当はそれを感じたくない自分を許している。

 

その上で昨日、改めて、望まない現実が起こる理由に関して考えていた。

 

すると今度は「私が手柄をたてたい」「私は人の役に立たなきゃいけない(立っていない)」「完璧にやらなければ叱られる」などが出てきた。

 

私には「人の役に立たなければいけないのに、それができていない」という想いがあり、「人の役に立つことで認められたい。手柄を立てたい」のであるようだ。

 

つまり逆にいえば「人の役に立たないと自分に愛されない」「手柄を立てないと自分に愛されない」「完璧に遂行して100%成功させないと自分に愛されない」ということだ。

 

であるから「私がやりたい(私がやらなきゃ)。私がやらないと私の手柄にならない。私の手柄じゃないと、私は自分に愛されない」ので、自分のコントロール外で叶ったり上手くいったり、対処する必要がなくなるのが嫌なのだ。

 

よって「既に叶っている」「勝手に叶う」は受け入れたくない。受け入れてしまったら自分が手柄を立てるチャンスがなくなる=自分から愛されるチャンスがなくなるからだ。

 

これは見事に現実に反映している。

願望=実現だ。

 

それから、自分を条件付きで愛してきたので、条件的に完ぺきな人がそばにいると嫌だ、というのもでてきた。

 

周囲の人でいうと、たとえば容姿がよかったり仕事ができる人というのは、性格や何かに問題を持っていてほしいのだ。

人格が優れている人なら、能力値は低いなどの要素があってほしいのだ。

なぜなら、容姿も人柄も能力も完璧な人がいたら、劣っている(と思っている)自分には、自分から愛されるチャンスは巡ってこないからだ。

昨今、芸能人やYouTuberたちへの過度なバッシングや誹謗中傷が日常的に行われているが、参加している人はこういう心理なのではないだろうか。まあそれも私の内面の反映だが。

 

ということで、これも見事に願望実現してきた。

 

そして最後に、「最悪な状況やパッとしないところから、奇跡を起こして一発逆転したい」のような願望も出てきた。

これは1つめと被るが、そういった問題のある状況で自分自身の能力を発揮して誰かや自分の役に立てば、評価してもらえるし自分に愛してもらえるからだ。

その為にエッチラオッチラ問題をつくり続けてきたのだろう。問題がなければ解決できないし、解決できなければ手柄はたてられないからだ。

 

通常なら簡単にすむことが、ものすごい遠回りをしなければならないことがこれまで何度もあったのだが、それは役に立っていない、なにもできていないという罪悪感を埋めるためだったのかもしれない。

まさに願望=実現だ。

 

この理由を見つけたからといって叶うとかではないが、いかに自分が願望を実現してきたのかは納得が行くし、願望=実現が存在することを認めざるを得ない。

 

私は自愛するに当たって、自愛で有名なisaさんと、isaさんが紹介していたひねくれさんを参考にしているのだが、2人の教えには日々発見があって、非常に感謝している。

 

リアルタイムで会いたかった気持ちもあるが、そうすると依存してもしまいそうなので、残してくれた膨大な言葉から学び続けようと思う。

この2人の存在も愛だと思う。

 

「すべてが叶っても不幸なまま」という恐怖

自分を好きな理由は、挙げられなくて寧ろ正解だと思う。

 

koukoudori.hatenablog.com

 

自分を本当に愛している状態とは、無条件に自分を受け入れている状態。

 

つまり「~だから、私が好きだ」は条件付きで、「別に理由はいけど、私が好きだ」が無条件なのだ。

 

「~だから好きだ」は、その「~」の部分が自分の理想通りではなくなると、途端に自分への好意を失う。

 

美人だから自分が好きだった人は、自分の容姿が衰えていると感じた途端、自分を愛することはできなくなる。

 

お金を持っていて、みんなが憧れる仕事をしている自分が好きだった人は、破産したり、病気で仕事ができなくなると、自分であることがツラくなる。

 

昨今、芸能人が自ら命を絶つことが非常に増えている。

もちろん、昔も皆無ではなかったが、現代はあまりにも多いのではないだろうか。

 

芸能人といえば、一般的には「成功者」に分類される人々だ。

それに最近、命を絶つ芸能人は、たとえば一部で熱狂的な人気があるような人達ではなく、日本人の大半は知っている、バリバリの第一線で活躍している人たちばかりだ。それに年齢も若い。

 

その背景には様々な事情があったのだろうが、「金もないし、仕事も誰がやっても替えのきくもので、結婚もしてなくて・・・」などと人生を嘆いている人たちからすれば、「え? お金も名誉も仕事も家族も、すべて持っているのに、なぜ死ななければならないの?」と思うような人たちばかりだ。

 

「お金がなくても、愛があればいい」

 

これは大抵は、きれいごととして聞き流されるが、「すべてを手にしてなお、幸福になれなかった人たち」にとっては、紛れもない真実だろう。

 

私も必死に叶えようとしていた時は、ふと「でも、すべてを手にして満足できなかったら、どうしよう?」という不安が胸をよぎることが多々あった。

 

というか、理想の裏側に、常にその不安があった気がする。

たとえば「一生困らないくらいのお金があればなあ・・・10億くらいかな?」と想像してみる。「よし、10億持っていることにしよう」と決めた途端「いやでも、もしもの時の為に、1000億くらいはあったほうがいいか? いや、1兆? 世界の大富豪はもっと持ってるな、10兆くらいかな・・・」と、どんどん額が上がっていく。

 

そうしてふと「私はいくらあったら、安心できるんだろう」と、思う。

そしてその疑問自体に、とても強い不安を感じる。

 

「もしかして私は、いくらあっても、何があっても、一生満たされないのではないか?」と。

 

何かが明確に欠けていると認識している時点で不幸なのは、「手に入れればいい」という逃げ道がある。

だが、お金も名誉も仕事も自由な生活も家族も容姿も、すべてを手に入れた時、まだ不幸な自分のままだった時の恐怖は、想像するだけで恐ろしい。何故ならもう、解決策がないからだ。

 

条件付けで自分を愛しているうちは、常に上記の恐怖が自分を追い回す。

手に入れても手に入れても、満足できない。

やっと手に入れても、思ったほどの幸福感が訪れないことに、焦りを感じる。

 

もしかしたら、私たちは「欲しい欲しい」と渇望しながら、それ以上に「すべて手に入れた時、まだ不幸だったら? 今まで求めて来たものが、必死で搔き集めたものが、自分を満たすものではなかったとしたら?」という恐怖を感じているのかもしれない。

 

その恐れはあまりにも大きいので、私たちは目をつぶりつつも、「叶える」「すべてが既に叶っている」という選択肢を選べないのかもしれない。

 

誰よりも何よりも猛烈に「叶えたい」時こそ、私たちは「叶うこと」を猛烈に恐れているのかもしれない。

 

それはきっと、どこかで「これは私を満たすものではない」と知っているからだろう。

 

反対に、無条件に自分を愛するとき、私たちを大きな安心が包み込む。

理由なく自分を好きでいることが許される、その事実が自分をこの上なく満たす。

今まで渇望してきたものが、幻の理想であったことが分かる。

 

これを知る為にはやはり、自分で実行し、体験するしかないのだろう。

自分で体感するまでは、こんな話はただの「きれいごと」でしかない。