自分を愛すること&自分に愛されることは本来、当たり前のことだとよく言われる。
叶えることと引き換えに自愛をしているうちは、どうしても義務に感じるものだが、本当に向き合うと決めて続けると、段々と自分の心が見えて、ほぐれて、これこそが自分が一番ほしかったものだと実感してしまう。
すると、自分を愛している状態が本来の状態だったのだ気付く。標準装備という感じだ。
自愛は「しなければいけないもの」ではない。
その状態が自然だから、力むのをやめると勝手にとそこへ戻っていくだけの話だ。寧ろ懸命に自分を嫌おうとしてきた今までが異常だったわけだ。
自分を好きになることに理由はいらない。
でも、嫌いになるにはたくさんの理由がいる。
自分が好きなところを挙げられない人は多いと思う。そしてその理由を「自分が嫌いだから」と思い込んでいる人も多いだろう。
でも本当は「自分を好きなことは当たり前すぎて、理由がいらないから考えたこともない」なのではないだろうか。
反対に、嫌いなところを咄嗟にいくつも挙げることができるのは、自分を嫌うことは普通のことではなく、様々な理由がないと成り立たないので、日頃から注意深く、それっぽい要素を見繕っているからではないだろうか。
つまり、自分を嫌いな理由は薄っぺらい嘘なのである。
自愛はたとえるなら二足歩行と同じだ。
赤ん坊は「私には二足歩行する義務と使命がある」と自覚しながら、二足歩行を習得するのではない。
ただ生まれて、ただ体が発達し、自然と二足歩行という形に落ち着くのである。
人間には別に、二足歩行する義務はない。ルールとして掲げられているわけではないのだ。
別にしたければ四足歩行すればいいし、逆立ちで歩いたっていい。捕まるわけでもない。でも実際にはする人はいない。
二足歩行が人間の肉体構造的にはいちばん適しているので、それに無理に逆らうことなく行っているのだ。
自愛も同じで、義務でなくてもその状態が一番自然で適しているから、そうするだけなのだ。
無理して嫌いな理由を探し回り、懸命に自分を嫌おうとしていること、そして自分を好きになるためには理由が必要なんだということ、まずそこに疑問を持つのがいい気がする。