「願望実現」オタクが、自分を抉ってみたレポ。

自分を愛するって生半可なことじゃなかった。

「すべてが叶っても不幸なまま」という恐怖

自分を好きな理由は、挙げられなくて寧ろ正解だと思う。

 

koukoudori.hatenablog.com

 

自分を本当に愛している状態とは、無条件に自分を受け入れている状態。

 

つまり「~だから、私が好きだ」は条件付きで、「別に理由はいけど、私が好きだ」が無条件なのだ。

 

「~だから好きだ」は、その「~」の部分が自分の理想通りではなくなると、途端に自分への好意を失う。

 

美人だから自分が好きだった人は、自分の容姿が衰えていると感じた途端、自分を愛することはできなくなる。

 

お金を持っていて、みんなが憧れる仕事をしている自分が好きだった人は、破産したり、病気で仕事ができなくなると、自分であることがツラくなる。

 

昨今、芸能人が自ら命を絶つことが非常に増えている。

もちろん、昔も皆無ではなかったが、現代はあまりにも多いのではないだろうか。

 

芸能人といえば、一般的には「成功者」に分類される人々だ。

それに最近、命を絶つ芸能人は、たとえば一部で熱狂的な人気があるような人達ではなく、日本人の大半は知っている、バリバリの第一線で活躍している人たちばかりだ。それに年齢も若い。

 

その背景には様々な事情があったのだろうが、「金もないし、仕事も誰がやっても替えのきくもので、結婚もしてなくて・・・」などと人生を嘆いている人たちからすれば、「え? お金も名誉も仕事も家族も、すべて持っているのに、なぜ死ななければならないの?」と思うような人たちばかりだ。

 

「お金がなくても、愛があればいい」

 

これは大抵は、きれいごととして聞き流されるが、「すべてを手にしてなお、幸福になれなかった人たち」にとっては、紛れもない真実だろう。

 

私も必死に叶えようとしていた時は、ふと「でも、すべてを手にして満足できなかったら、どうしよう?」という不安が胸をよぎることが多々あった。

 

というか、理想の裏側に、常にその不安があった気がする。

たとえば「一生困らないくらいのお金があればなあ・・・10億くらいかな?」と想像してみる。「よし、10億持っていることにしよう」と決めた途端「いやでも、もしもの時の為に、1000億くらいはあったほうがいいか? いや、1兆? 世界の大富豪はもっと持ってるな、10兆くらいかな・・・」と、どんどん額が上がっていく。

 

そうしてふと「私はいくらあったら、安心できるんだろう」と、思う。

そしてその疑問自体に、とても強い不安を感じる。

 

「もしかして私は、いくらあっても、何があっても、一生満たされないのではないか?」と。

 

何かが明確に欠けていると認識している時点で不幸なのは、「手に入れればいい」という逃げ道がある。

だが、お金も名誉も仕事も自由な生活も家族も容姿も、すべてを手に入れた時、まだ不幸な自分のままだった時の恐怖は、想像するだけで恐ろしい。何故ならもう、解決策がないからだ。

 

条件付けで自分を愛しているうちは、常に上記の恐怖が自分を追い回す。

手に入れても手に入れても、満足できない。

やっと手に入れても、思ったほどの幸福感が訪れないことに、焦りを感じる。

 

もしかしたら、私たちは「欲しい欲しい」と渇望しながら、それ以上に「すべて手に入れた時、まだ不幸だったら? 今まで求めて来たものが、必死で搔き集めたものが、自分を満たすものではなかったとしたら?」という恐怖を感じているのかもしれない。

 

その恐れはあまりにも大きいので、私たちは目をつぶりつつも、「叶える」「すべてが既に叶っている」という選択肢を選べないのかもしれない。

 

誰よりも何よりも猛烈に「叶えたい」時こそ、私たちは「叶うこと」を猛烈に恐れているのかもしれない。

 

それはきっと、どこかで「これは私を満たすものではない」と知っているからだろう。

 

反対に、無条件に自分を愛するとき、私たちを大きな安心が包み込む。

理由なく自分を好きでいることが許される、その事実が自分をこの上なく満たす。

今まで渇望してきたものが、幻の理想であったことが分かる。

 

これを知る為にはやはり、自分で実行し、体験するしかないのだろう。

自分で体感するまでは、こんな話はただの「きれいごと」でしかない。