どうも、モヘジです。
なんと前回から1年も経っちゃってました。
以前の記事を1つだけ見返してみたけれど、こんなこと書いてたんだなーって(笑)
やけに冷静ぶって賢ぶってかいてる感じ。
騒音主はまだ隣にいますし(うるさいが去年より全然まし。強制退去へ向けて動いてもらってる)、大金持ちになった訳でもなく。
でも大好きな配偶者と共に暮らし、苦手で避け続けてきた接客業のパートを(めっちゃ嫌々)始めて、意外にも今までで1番やりがいを感じたり。
騒音主について最近思うのは、こんなに罪悪感なくクソミソに蔑める存在としてかなり有用なんだろうなあと。
「まじで害しかない」
「生きてる価値ない」
「早く○んだ方が世のため」
なかなかこんな言葉、罪悪感なしには言えませんよ(もちろん当人には言ってないが)。
しかも騒音主を見下せば見下すほど、カタルシスというか快感を感じてる自分もいて。
騒音主はアル中で、ずっと常人には見えない存在と会話したり絶叫したり、ドオーンと怪物が足下ろしたみたいな音を鳴らしてるんですが。
そういうヤバイ奴であることを確認したい、という欲求もすごく感じる。
そんなこんなで(?)、はっきりと動機があった訳じゃないけど、またスピ的なものを読みたくなって、もはや馴染みの潜在意識まとめサイトへお邪魔して。
たまたま読んだ方の記事に、セドナメソッドの創始者レスターの記事のリンクが貼ってあって(メソッド発見に至る自己探求の旅)。
読んでみたら、けっこう面白かった。
というかこれ、前にも読んだことあった(笑)
騒音主が叫び出す度、この感情を手放しますとか、愛に返しますとか、適当に真似っこしてみたり。
(セドナは詳しくないけど、感情を手放すか自分へ聞いて、はいかいいえで答える部分だけ知ってた)
それで何かが劇的に良くなるとかはないけど、面白いなーって。レスターの記事が面白かったから、ミーハーな影響を受けた。レスターが自由で羨ましかった。
その後、また潜在意識まとめをウロウロしてて、ニッポンさんという方の「苦しみのもとである『私』をやめた(要約)」というキーワードを読んで、ああそっかーって。
レスターの真似っこで、過去のトラウマを思い出しては、その感情を手放すってしてたけど、そもそもトラウマの持ち主である『私』を手放してしまえば、なんの苦悩もなくなるなーって。
だからそれ以降は、「辛いって『私』が思ってるなー」って、一旦『私』を強調して(こんな感じのをどっかで読んだ)、その後に「この『私』を手放します」ってアレンジしてみたよ。
別になんの実感も特別な感覚もないけど、『私』という責任というか枠から解放される感じがなんか小気味いい。
スピではよく、私は存在しないとか言われるけど、それを知識でなく分かったことは私にはない。
だから、私と思っていたものを手放したとき、それでも残る(俗に言う)本当の私というのを見るのが楽しみだったり。
達人さんとかがよく、なんでも可能だし、好きなものを選べばいいと言うけど、それを本当に心から言えるときというのは、『私』を手放したときなんじゃなかろうか。
きっと無理だとか思うのは、今まで積み重ねてきた記憶や体験、常識があるからで、もしその枠=『私』がなくなれば、まっさらな状態だから、いくらでもなんでも可能だと心から思えるんだろうな。思うというか、それが当たり前というか。
それを言葉だけ受け止めて、『私』という枠のなかで一生懸命「いや、なんでも可能なんだ❗」って言い聞かせても、結局は枠のなかで生きてるから、常識とか記憶に負けちゃうんだろうな。
枠と力比べをするんじゃなくて、その枠を手放す。
しばらくやってみます。