「願望実現」オタクが、自分を抉ってみたレポ。

自分を愛するって生半可なことじゃなかった。

「願いは石ころ」や「水飲むのと同じ」やら

どうも、モヘジです。

名乗りはしたりしなかったりです。

 

願望実現オタク必修の「願望実現系まとめ」は色々読み漁ってきました。

(リアルタイムの掲示板はほぼ見たことないです)

ほんとまとめるのはすごい労力だと思うけど、読みたいことろだけ読めるのでありがたいですよね。

 

その中で「願望は石ころと同じだ(叶ったら重要だと思わなくなるから)」だとか「水を飲むのも願望だ」とか、そういう類の言葉がありますよね(引用は正確じゃないし、解釈も間違っている可能性ありますし、随分前に読んだのでうろ覚えです)。

 

これは以前の「叶えねばならん!」な私にとっては、どうしても採用することができませんでした。いや採用しようとはしたよ。だってそうすれば「叶う」からさ。

 

でも上辺だけで、本心では「そんなこと思える訳ねえだろ」でした。

思い込まそうとしてた時期もあった気がしますが。

どうしても胸がザワザワして・・・。

 

しかし本願というのが「理想を叶えること」ではなく「理想でも何でもない今の自分を愛すること」だと気付いてしまっては、上の文言には頷くしかありませんでした。

 

石ころと水を飲むこと、そして願望。

この3つには明確な共通点があります。

 

それは「私が私を無条件に愛することには、まったくの無関係」という点です。

 

石ころがあろうが水を飲もうが、金持ちになろうが美人になろうが、逆に貧乏になろうがブスになろうが「私が私を無条件に愛すること」にはなんの影響も与えません。

 

そういう意味で、願望には「特に価値はない」ということになります。

 

もちろんこれは「金持ちになる機会があっても軒並み放棄しろ。自分の無償の愛さえあればいいんだから」という意味ではありません。

 

「愛さえあればいいんだから、水なんか飲むな」という意味でもありません。

 

別に何でも自由に選べばいいではないですか。

選ぶというか、現れちゃったもんはしょうがない訳で、したいと思えばすればいいし、したくないならしなければいい。どちらも拒否せず、寧ろ受け入れるでしょう。

 

良いことも悪いことも、気に入ることも気に入らないことも、都合のいいことも悪いことも、それ自体はどうでもよいのです。

なぜなら本願である「愛するかどうか」に無関係だから。

だから何が起こっても起こったもんはしゃあない。

ただそれに対する自分の反応を丸ごと受け入れ愛せばいいのです(物事ではなく自分を受け入れる)。

 

辛いなら辛い、惨めなら惨め、嫌なら嫌。

嬉しいなら嬉しい、楽しいなら楽しい、好きなら好き。

 

どれをどう受け入れたとしても「丸ごと愛す」です。