あるとき、嫌なことが重なった。
体調・容姿・金銭・人間関係などなど、それまでの少しずつが積み重なって「いつの間にか、すごくしんどい」状態になっていた。
「なんでこんな目に遭わなきゃいけねーんだよ」と怒りがこみ上げて来た。
自分は変われるはずなのに。
うまく変わって、はやく大好きな自分を喜ばせたいのに。
無力感、自分や願望実現というもの自体への苛立ち、そういったものに一気に呑まれた。
私はまたいつものパターンで、アファメーションをやりだした。
気持ちは少し楽になった。でも問題は悪化している気がした。
「早く早く」という想いと「でももう叶ってるんだから、渇望するのはおかしい。こんな態度じゃダメだ」という想いがぶつかりあい、「よし、思考を無視しよう」などまた違うことを追加したりした。これもいつものことだ。
先日、今自分が抱えている気持ちを、ぜんぶ夫に話した。
夫は願望実現など興味ない人だが、それでも聞いてくれた。
「願望実現とか、そういうのはよく分からないけど、話してくれた気持ちの部分はすごく分かる。変われると思ってるのに、変われないのはすごく辛いよね。でも、俺はそのままのモヘジでいいと思うけど」
そういってくれた。
そのとき、「いや、変われるんだから変わらなきゃ。私が可哀そうだ」という抵抗が湧いたが、話し続けるうちに「変わりたいと思っている自分に傷付いている自分」というものに気が付いた。
「もっと良くなろうよ! できるんだから!」と自分にいわれる度、今の私が否定されている気がしていたのだ。でもそれにはずっと気付かないふりをしていた。
たまにそう思っても「でも、欲しいものを手に入れた方が、自分も喜ぶし。それが自分の為だから」と蓋をしていた。
私はそのとき、自分の本心・本願を知った。
私はこれまで「自分のことが大好き。だからなんでも叶えてあげたい。それが愛情」と思い込んでいた。
だが実際は全然ちがった。
私の本当の願いは「この今の私を、そのまんま愛して欲しい」だった。
「変わった後の理想の私」ではなく、「世間的にダメだといわれる要素をいっぱいもった今の私」を愛して欲しかったのだ。受け入れて欲しかった。
まるですれ違う親子のようだった。
母親はたった1人の子どもに出来る限りの贅沢をさせたいと、昼夜問わず働きまくる。
一方留守番する子どもは、最低限の生活でいいから、母親とずっと一緒にいたいと願っている。
母親に悪意はない。寧ろ、子どもの為だと信じて、懸命に働いている。
私もそうだった。
「なんでも思い通りに叶えてあげること。最高で、立派で、完全なものを与えてあげること」それが私の幸せだし、私からの最大限の愛だと思っていた。
だから、自由自在に願いを叶えてあげられない自分が不甲斐なかった。
私は大好きな自分の為に最善を尽くせていない、幸せにしてあげられていない、と。
私が可哀そうだ、と。その考えを信じて疑わなかった。
でも本当は、私にとっての幸せは「理想を与えられること」なんかじゃなかった。
本当の願い・幸せは「ぜんぜん理想じゃない自分を愛し・愛されること」だった。