「願望実現」オタクが、自分を抉ってみたレポ。

自分を愛するって生半可なことじゃなかった。

私の中の大人と子ども➁

あるとき、嫌なことが重なった。

体調・容姿・金銭・人間関係などなど、それまでの少しずつが積み重なって「いつの間にか、すごくしんどい」状態になっていた。

「なんでこんな目に遭わなきゃいけねーんだよ」と怒りがこみ上げて来た。

 

自分は変われるはずなのに。

うまく変わって、はやく大好きな自分を喜ばせたいのに。

無力感、自分や願望実現というもの自体への苛立ち、そういったものに一気に呑まれた。

 

私はまたいつものパターンで、アファメーションをやりだした。

気持ちは少し楽になった。でも問題は悪化している気がした。

「早く早く」という想いと「でももう叶ってるんだから、渇望するのはおかしい。こんな態度じゃダメだ」という想いがぶつかりあい、「よし、思考を無視しよう」などまた違うことを追加したりした。これもいつものことだ。

 

先日、今自分が抱えている気持ちを、ぜんぶ夫に話した。

夫は願望実現など興味ない人だが、それでも聞いてくれた。

 

「願望実現とか、そういうのはよく分からないけど、話してくれた気持ちの部分はすごく分かる。変われると思ってるのに、変われないのはすごく辛いよね。でも、俺はそのままのモヘジでいいと思うけど」

 

そういってくれた。

そのとき、「いや、変われるんだから変わらなきゃ。私が可哀そうだ」という抵抗が湧いたが、話し続けるうちに「変わりたいと思っている自分に傷付いている自分」というものに気が付いた。

 

「もっと良くなろうよ! できるんだから!」と自分にいわれる度、今の私が否定されている気がしていたのだ。でもそれにはずっと気付かないふりをしていた。

 

たまにそう思っても「でも、欲しいものを手に入れた方が、自分も喜ぶし。それが自分の為だから」と蓋をしていた。

 

私はそのとき、自分の本心・本願を知った。

 

私はこれまで「自分のことが大好き。だからなんでも叶えてあげたい。それが愛情」と思い込んでいた。

 

だが実際は全然ちがった。

 

私の本当の願いは「この今の私を、そのまんま愛して欲しい」だった。

「変わった後の理想の私」ではなく、「世間的にダメだといわれる要素をいっぱいもった今の私」を愛して欲しかったのだ。受け入れて欲しかった。

 

まるですれ違う親子のようだった。

母親はたった1人の子どもに出来る限りの贅沢をさせたいと、昼夜問わず働きまくる。

一方留守番する子どもは、最低限の生活でいいから、母親とずっと一緒にいたいと願っている。

母親に悪意はない。寧ろ、子どもの為だと信じて、懸命に働いている。

 

私もそうだった。

「なんでも思い通りに叶えてあげること。最高で、立派で、完全なものを与えてあげること」それが私の幸せだし、私からの最大限の愛だと思っていた。

だから、自由自在に願いを叶えてあげられない自分が不甲斐なかった。

私は大好きな自分の為に最善を尽くせていない、幸せにしてあげられていない、と。

私が可哀そうだ、と。その考えを信じて疑わなかった。

 

でも本当は、私にとっての幸せは「理想を与えられること」なんかじゃなかった。

本当の願い・幸せは「ぜんぜん理想じゃない自分を愛し・愛されること」だった。