イメージとしては、私の中に、大人と子どもがいる。
子どもは大人に向かって「○○がほしい」という。
大人は「そうか、○○がほしいのか。でも今は手に入らないな。よし、○○を手に入れる為に頑張ろう」と意気込む。
その取り組みは上手く行く時もあるが、上手く行かないときもある。
上手く行ったときは、大人はとても誇らしい。手に入れたものを子どもに与え、子どもが喜んでくれるのが嬉しい。これで子どもを幸せに出来た、自分は大事なこの子に愛を示せた、と心身ともに満たされる。
だけど少しすると、子どもは今度は「××がほしい」という。
大人は同じように、××を求める。今度は上手く行かなかった。前回と同じく、出来うる限りの手を尽くしたのに、だ。
大人は惨めな気持ちになる。大事な子どもへの愛を証明できなかった。それで子どもが傷付いていないか、とても気に病む。手に入れたいのはやまやまだった。自分が子どもよりも求めていたかもしれない。でも上手く行かなかった・・・。
子どもは「××がほしい」と言い続ける。
あるいは「ならせめて△△をちょうだい」と泣く。
大人はその度に頑張る。手に入れば束の間安心し、手に入らなければ情けなさに打ちのめされる。自分を責める。
私もこの繰り返しだった。
願いを叶えられないことが、大事な自分への最低の仕打ちのように思えた。
でも「子どもは、ありのままの、何かを手に入れる前の自分を愛して欲しいのだ」と気付いた時、分かった。
子どもが頻りに「ほしい」というのは、それを持っていない自分は、大人から愛してもらえないと思っているからだ。
それは何度も大人が「それを持ってなきゃ、お前は幸せになれないんだよ。恐ろしいことになるし、損をするんだよ」と子どもに言い聞かせて来たからだ。大人自身がそうやって生きて来たからだ。
子どもは、お金や容姿や学歴が欲しいんじゃない。
それを手に入れることによって得られる(と思っている)、大人からの愛が欲しいのだ。子ども自身もそのことに気付いていないし、大人はいうべくもない。
子どもと大人は、お互いに勘違いしながら、永遠にすれ違って来た。
いつまでも幸せも安心も訪れず、何かを必死に手に入れても、すぐに別のものがほしくなった。
なぜなら、それは本当に欲しいものじゃなかったから。
本当に欲しいものは、愛だけだったから。
ここに行き着いたとき「そうか、じゃあ、今まで願いだと思って来た理想たちは、実は願いなんかじゃなかったんだ。私はそんなもの、欲しくなんかなかったんだ。でもそれがないと愛されないと思っていたから、必死に欲しがってただけなんだ」と気付いた。
「理想なんかなくても愛されるなら、理想はそもそもいらないんだ」と。
「ということは、手に入れるべきものなんてなにもないんだ。手に入れる義務なんて課せられてないんだ」と。
理想を手に入れる「義務」はないが、理想を手に入れる「権利」は誰もが持っている。
だが、成人してお酒を飲む権利を手にしても、それを使わない人は多い。
それと同じで、理想を手に入れる権利はあるが、別に使う必要はないのだった。
そうか、そうだったのか。
私は叶える必要なんてなかったんだ。
強いて言えば、自分を無条件でまるごと愛することだけが、叶えたいことだった。
だがそれはもう手に入ったも同然だ。
ということはもう、この世に手に入れるべき、叶えるべきことは存在しないのだった。
そんな風な結末に至ってしまった。
ずっと「叶ったり、叶わなかったり」の状態を抜け出したかった。
願望実現系のまとめを読み漁り、どうすれば「もう叶っている認識」になれるのか、試行錯誤しまくった。
もちろんそれは、理想を叶えることが自分を愛することであり、自分を幸せにすることであり、自分の本願であると誤解していたからだ。
その誤解がなくなった今、私はもう「すべてが叶っている認識」になる必要すらなかった。理想なんて存在しなくて問題ないからだ。誰も理想なんて、最初から求めていないからだ。あんなに嫌だった「叶ったり、叶わなかったり」でもなんの問題もないのだった。
だって何が叶おうが叶うまいが、良いことが起ころうが悪いことが起ころうが、私が私を無条件に愛することになんの関係もないからだ。
そこまで至って、私は自分を無条件で愛せていなかったことをようやく知った。
昔より条件は減ったが、やはりまだ条件付きで自分を愛していたのだ。
それを認めたくなくて、ここまで来てしまった。
たとえば私は「不快な感情を感じている自分」が気に入らなかった。
嫌いではない。でも好きではなかった。
だから「あなたのためだから」といいながら、必死で状況なり感情なりを変えようとした。ありのままを許さなかった。
今思えば明らかなのに、今までまったく気が付いていなかった。
他にも私は「評価されない自分」が気に入らなかった。
「私は価値があるのだから、評価されるべきなのに」と周りに不満を持っていた。
だから「大丈夫、あなたは出来るんだから」と励ましたりした。
でも本当に私が求めていたのは「できるよ、変われるよ」ではなく「評価されなくてもいいじゃん」だった。私が今のままで愛してくれるなら、それでよかったのだ。
壮大な勘違いで、ここまできてしまった。
でも私はそういう自分も丸ごと愛していく。今度こそ本当に、丸ごと。
時間はかかるかもしれない。またいつのまにか条件付きの愛になっているかもしれない。
でも愛し続けることは決してやめない。