PCのサイトデザインを、カナヘイさん(たぶん)のデザインにしてみた。
ちょっと文字が読みにくい気もするし、文体にしては可愛すぎるデザインだが、気にしない(笑)
中学生のとき、カナヘイさんの絵が大好きで、こんな絵が描きたいと真似たりしていた。けっきょく描けるようにはなってないな(笑)
これも「叶ってない」てことになるな(笑)
ところで、ブログのタイトルに「抉ってみた」と入っている。
内容は自分を愛すること、つまり願望実現界では有名な「自愛」であるのに、なぜ「抉ってみた」になるのか。
自愛といえば、「ほわほわ温か」みたいなイメージをする人が多い気がする(どんなイメージだ?)。
私もそう思ってたし、実際そうだった。
自分に好きだとか許すとかいうと、とても安心できた。
ぬるま湯にゆっくりと浸かっているような感覚だ。
だが今回、自愛を改めて深めてみると、これまでとは違って心を抉られる場面が多々あった。
多くは「今まで見ないようにしてきたこと」「そうであったら困ること」にぶち当たったときだ。
たとえば私は、自分が大嫌いだった時に比べて、自分がはるかに好きだった。
日常に幸せも感じていた。叶わないことも沢山あったが、叶っていることもちゃんと認識できていた。過去よりは確実に満たされ、そんな自分が好きだった。以前は許せなかった自分も、許せるようになっていた。
だから私は微塵も疑わなかった。
「私は無条件に自分を愛している」
ということを。
願望実現系のまとめを読んでも、「自愛」に関しては特に興味はなかった。
読めば共感できるところはあるが、そこに新しい学びはないと思っていた。
なぜなら「私は既に完全に自分を愛せている」と決めつけていたからだ。
一度、あまりにも現実が上手く行かず「私は自分を愛しているし、幸せなのに、どうして叶わないのだろう」「まとめでは、幸せだったり自分を愛していれば、勝手にすべてが叶っていくと書いてあったのに」「私はまだ自分を愛し足りないのか」と悩んだことがあった。
だがその時も最終的には「いや、そんなはずはない。私はいくつかの願望を叶えている。それは自分を愛していたからだ。叶わない原因は他にあるのだ」という結論に落ち着いた。
それくらい、自分が無条件の愛を持っていることを保持していたかった。
逆に言えば、そこが揺らぐことが怖かった。
自分を大嫌いだった当時が、地獄のような日々だったからだ。
またそこに戻るようなことは二度とごめんだった。
でも今回、自愛を深める中で「私は自分を無条件に愛せてはいなかった」ことに気付いてしまった。最初はものすごく抵抗した。認めるのが怖かった。
だけど、そこからいったん目を逸らして自愛を続けているうちに、自分が「あなた(自分)の為だから」と言いながら、その時の思考や感情、現状を修正しようとしていることに気付いてしまった。
自愛は自分にとことん注目する。
だから、そんな自分の動きにも気付かざるを得なかった。
というより、これまでも気付いてはいたが、改めようとはしなかった。
「自分がなにをやっても許すのが自愛」という逃げ口上を利用して。
もちろん「自分のすべてを許す」は間違っていないが、掲げた理想どおりに自分を修正しようとする動きは、どう考えても「自愛」ではなかった。「無条件の愛」ではなかった。「修正すれば上手く行くのだから。理想通りになれれば、もっと自分を好きになれるよ」という条件付きの愛だった。
それでも最初の内は「修正しようとする自分も許す」という事しか出来なかった。
でも段々と「いやでも、修正しなくていいのか」と思いとどまるようになっていった。
「修正してはいけない」という禁止ではなく「修正する義務は自分にはないのだ」という解放だった。
それまで「なぜ叶わないのか」で悩むことは何度もあった。
だけど「なぜ叶えなければいけないのか」と悩むことはなかった。
叶えることは当然の義務だったからだ。そこに選択の余地があるとは思いつきもしなかった。でも自分にぎゅっと集中する中で、「叶えなければいけない」という義務感に疑問を持った。
そこで「今まで叶えることを強要し、理想ばかりを求め現状否定していた自分は、無条件に自分を愛していなかった」とようやく認めた。
胸が抉れるようだった。
これまでの自分の自分に対する行いに、幻滅する気分だった。
だがそこでも、自愛は有効だった。そんな私も既に許されていた。
自愛は、浅いところで定型文通りやっていれば「ほわほわー」で済む気がする。
それに必ずしも、同じ経験をした人が、胸が抉られるように感じるわけでもない。
あくまで私の場合は、「ほわほわ」で止まる自愛はまだまだ浅かった、ということだ。
都合のいいところだけをみて、都合の悪いところには蓋をしていたのだ。